板碑

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 板碑〔いたび〕は、鎌倉~戦国時代に至る中世において、供養のため建立した塔婆〔とうば〕の一種。

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目次

概要

 板碑は、他の石塔のように複数の部材を組み合わせて立体的に作られた物と異なって一枚の板状に加工した石を用い、その表面に自己の信仰する主尊や供養者、年月日を刻むものである。
 板碑は北海道から九州まで全国各地で見られるが、関東、特に武蔵国では秩父青石〔ちちぶあおいし〕と呼ばれる緑泥片岩〔りょくでいへんがん〕を用い、板状であるために「板碑」と呼びならわしてきた。それ以外には、「板石塔婆」〔いたいしとうば〕、「青石塔婆」の呼称もある。その大きさは地上高5メートルを越す巨大なものから全高30センチ前後まで多様にあるが、50~70センチ程度のものが最も多い。

板碑の造立年代

 板碑は地域により多少の違いはあるが、およそ13世紀から16世紀にかけて造立されている。埼玉県全体では、板碑の造立は1300年代に至って急速に増加し、1360年代に頂点に達する。その後、急激な減少に転じ、1480年代に増加を見るが、1600年代に消滅する。八潮市域では弘安7年(1284年)を最古、天正20年(1592年)を最新とし、15世紀後半から16世紀前半にかけて造立が盛んになっている。

板碑の形式

 板碑の正面上部には必ず梵字〔ぼんじ〕や画像で仏・菩薩〔ぼさつ〕などが表されている。これを主尊(もしくは本尊)と呼ぶ。主尊の表現方法には、種子〔しゅじ〕・画像・文字の三種がある。種子は、梵字を組み合わせて特定の仏・菩薩などを表現し、板碑には最も多く用いられるものである。画像は文字通り仏・菩薩を絵画として表したものである。文字によるものは、六字名号(「南無阿弥陀仏」)、題目(「南無妙法蓮華経」)を主尊とするものがある。
 板碑の下半部の銘には、板碑を造立した目的が刻まれていることが多い。その目的は、死者の追善供養のために縁者が造立する、もしくは逆修〔ぎゃくしゅ〕として生前中にあらかじめ死後の冥福を祈るため、さらには特定の宗教行事(念仏法会などの純仏教的なものから庚申待・月待などの民間信仰的なものまで)が行われた際の供養などがある。他方下半部には偈〔げ〕(教典にある詩文)や真言(仏の本願を示すもの)が刻まれていることが多い。

八潮市域における板碑

 八潮市内にはこれまでの調査によって127基の板碑が確認されている。市内で発見された板碑は、神体として民家(98基)・路傍(3基)・寺(6基)・墓地(17基)・塚(3基)の祠〔ほこら〕等で祀〔まつ〕られていたものである。ただし、このなかには、基部や山型の一部などで辛うじて板碑であることを示す破片も含まれている。主尊や紀年銘、人名などがわかるものは約80基程度である。
 現在、八潮市内で主尊を確認することが出来る板碑は、75基であり、その内最も多く確認されているのは阿弥陀種子であり、50基が確認されている。
 紀年銘が確認出来る市内の板碑は33基であり、前述のように弘安7年(1284年)の紀年銘が最古となっている。これは現在八條八幡神社に保管されており、「弘安7年銘板石塔婆」として八潮市指定有形文化財(考古資料)に指定されている。一方で最新の年代となる板碑は小作田長安寺が所蔵する二十一仏板碑であり、天正20年(1592年)の紀年銘となっている。

参考文献

  • 『新編埼玉県史 通史編2 中世』(埼玉県、1988年)1038~1069ページ
  • 八潮市史 通史編1』(八潮市役所、1989年)502~519ページ
  • 八潮の金石資料』(八潮市教育委員会、1976年)3~39ページ

(功刀俊宏)

追記 八潮市立資料館常設展示の板碑

(事務局)

関連項目

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