『れきナビ―やしお歴史事典』:旧版:近代・現代(20120813版)
近代・現代〔きんだいげんだい〕は、日本史の時代区分の呼称。
目次 |
『れきナビ』における近代・現代の定義
『れきナビ』における近代・現代の定義は、『八潮市史』を踏襲している。
- 近代の始期:4月の江戸開城等を経て、9月8日に明治と改元した明治元年(慶応4年、1868年)
- 近代の終期:昭和20年(1945年)8月15日の終戦
- 現代の始期:同上
八潮の近代・現代史概説―『八潮市の文化財ガイド』より―
三村の成立<明治>
江戸時代の村は、明治維新後もひとつの生活共同体として機能しており、明治17年(1884年)に連合戸長役場が設けられると、市内では伊勢野村連合(二町目村・木曽根村・南川崎村・伊勢野村・大瀬村・古新田・垳村)・上馬場村連合(南後谷村・柳之宮村・西袋村・上馬場村・中馬場村・大原村・大曽根村・浮塚村)・松之木村連合(八條村・鶴ケ曽根村・立野堀村・伊草村・松之木村・小作田村)が成立した。
その後、明治22年(1889年)に近代地方自治制度の一環として市制・町村制が施行され、伊勢野村連合は潮止村となり、上馬場村連合は八幡村、松之木村連合は八條村となる。
地方改良運動の進展<明治・大正>
明治38年(1905年)から明治39年(1906年)にかけて行われた日露戦争による戦費拡大は、村の財政を大きく圧迫し農村を疲弊させた。このような時期、「地方改良運動」と呼ばれる町村自治の振興を図る運動が内務省主導で推進され、明治44年(1911年)には潮止村が内務省より模範村として選奨された。選奨理由としては、納税の努力と実績、就学の奨励、信用組合の設置や勤倹貯蓄の意欲などが模範事例であると認められたことによるものである。
また、八幡村も県下において優良村と認められ、藤波玉太郎村長は教育の振興・納税の改善・産業の発達等に尽力したという理由で、県の自治功労者として表彰されている。
近代産業の振興<大正・昭和>
東京近郊で水運の便が良い市域には、煉瓦〔れんが〕の原材料である荒木田土〔あらきだつち〕に恵まれていることもあり、煉瓦工場が進出するようになる。大正5年(1916年)に金町製瓦会社(大正8年〈1919年〉に日本煉瓦製造株式会社に吸収合併され、日本煉瓦製造株式会社潮止工場と改称)が古新田地区に工場を移転したことを皮切りに、大正7年(1918年)には、帝国煉瓦株式会社花畑第二工場が大曽根地区で操業を開始し、さらに昭和15年(1940年)には柳之宮地区に与川煉瓦工場が創立された。しかしながら、日本の近代化に大きく貢献した煉瓦産業も、関東大震災で建築資材としての耐震性が疑問視されたことで徐々に需要が減少し、市域にあった煉瓦工場は1970年代に入ると閉鎖を余儀なくされた。
「八潮」の成立<昭和・平成>
戦後、地方自治を大きな柱とした新憲法が公布され、政府は、適正な自治体経営に必要な町村規模を計画して、昭和28年(1953年)に町村合併促進法を公布した。八條・潮止・八幡の三村合併協議は、なかなか合意に至らなかったが、八條村大字立野堀地区(現草加市稲荷)を分離し、新村名は三村の頭文字をとって「八潮」とすることで合意し、昭和31年(1956年)9月28日に八潮村が誕生した。
誕生までにさまざまな経験をした「八潮」であったが、都心から20キロメートル圏内という地の利もあり、その後の高度経済成長による工場の進出や急激な人口増加により発展を続け、昭和39年(1964年)に町制施行、昭和47年(1972年)には市制を施行した。
その後、首都高速道路の開通や、区画整理事業による都市基盤の整備、平成17年(2005年)のつくばエクスプレスの開業などがあり、まちの様相は大きく変化してきている。
八潮市域の近代・現代人口、面積・土地利用のグラフ
参考文献・ホームページ
- 教育総務部文化財保護課企画・編集『八潮市の文化財ガイド』(八潮市教育委員会、2009年)4ページ
- 『八潮市史 通史編2』(八潮市役所、1989年)2、854ページ
関連項目
- 八潮市沿革図(近世以降)(PDF)
- 地図・絵図・航空写真にみる八潮周辺の変遷
- 大字・小字マップ(昭和42年八潮町)
- 八潮市の大字・町名変遷図(PDF)
- 産業別就業者数
- 河川・交通マップ(現在)
- 八潮市#歴史
- 原始・古代
- 中世
- 近世
- 年号一覧
☆このページの平成24年(2012年)3月20日版(初版)はこちら