『れきナビ―やしお歴史事典』:旧版:大中臣氏(20120605版=初版)

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概要

 大中臣氏〔おおなかとみうじ〕は香取神宮神官を務めた一族(中臣姓)である。『香取大宮司系図』では中臣国子・国足と続き、その意美麻呂[おみまろ]の子、清麻呂の末裔とされる。同系譜によれば中臣の祖、天児屋命〔あめのこやねのみこと〕の末裔・五百島が匝瑳郡〔そうさぐん〕に住み、香取を氏の名としたが、子がなく中臣清暢(清麻呂の裔)を養子とし、清暢は姓を大中臣に改め香取神宮の神主(大宮司ともいう)となった。この清暢が同氏の祖とされ、大中臣氏が代々香取神宮の大宮司・大禰宜〔おおねぎ〕職を世襲した。香取神宮では社務権を持った六ヶ年任期の大宮司(神主)と神事奉仕を第一とした大禰宜が神官の中心に位置した。大宮司の任命者の名が明らかになるのは平安時代末期の12世紀からである。大宮司の任命は香取神宮を氏神とする摂関家(藤原氏の氏長者)から出され、神領の本家としての地位を兼ねていた。

社領・神職をめぐる争い

 平安以降、香取神宮は香取郡(下総国)を中心にして関東各地に社領を形成した。しかし、鎌倉時代以降、千葉氏をはじめとする武士による社領への侵略が相次いだ。こうした状況において社領と神職はその係争対象となった。 その一例として12世紀半ばには鹿嶋中臣氏が神主に任じられ、大中臣氏と神主職をめぐり争うなど、神職の相続に混乱が見られた。鹿嶋中臣氏が香取神宮司を務めた背景には香取と鹿嶋を結ぶ水上交通の存在、両氏の婚姻などの交流が考えられる。鹿嶋中臣氏との対立だけではなく、大中臣氏一族内部でも大禰宜・大宮司の両職をめぐり、一族間での争いが続き、神宮の組織は大きく混乱した。

大中臣長房の登場

 さらに貞治4年(1365)には、千葉氏一族の中村胤幹が神官の一部と結託して香取社中へ乱入し狼藉を働く事件を起こした。この事件の背景には、千葉氏が地頭職を持つ香取一帯で地頭の代官を務める中村が神官の所領を押領し、香取社との対立を深めていたことがあげられる。この事態に大禰宜である長房は、関白二条師良〔にじょうもろよし〕を通じて室町幕府に働きかけ、応安7年(1374)には千葉氏の抵抗を受けながらも最終的に香取社の権利を回復している。 このように千葉氏の影響力を排除した長房は、長年の一族の所領争いにも勝ち抜き、大宮司職を吸収して名実共に神官のトップとしての地位を固めた。さらに慣習法としての「社家の法」を神官たちに守らせ、大禰宜による神官の統制を図っている。大禰宜と大宮司の両職は子の幸房に引き継がれ、以後その系統が両職を維持した。

八潮市域との関わり

 八潮市域との関わりでは、市内を流れる古利根川(中川)には当時、河関と呼ばれる河川上に設けられた関所があったが、香取神宮はこのうち、戸崎関・大堺関・猿俣関・行徳関また同神宮の灯油料所であった長島関などの支配および関銭(交通税)徴収権を握っていた。南北朝期、長房はこの河関について神宮領再編の一環として摂関家・幕府に働きかけ、その安堵[あんど]を勝ち取った。至徳4年(1387)に長房が嫡子幸房に与えた財産目録には「つるかそね(鶴ヶ曽根)」・「大さかへ(大瀬)」の関での関銭徴収権などの記載が見られる。 その後の大中臣氏による河関支配については不明だが、戦国時代に入り、小金城主高城氏が長島を知行していたので、神宮による支配は終焉していたと思われる。  

参考文献・ホームページ

  • 遠藤忠「第2編 中世の八潮・第4章旧利根川流域の農民と舟運・第4節 旧利根川の水運」(八潮市史編さん委員会編『八潮市史 通史編1』、八潮市役所、1989年)437~455ページ
  • 川尻秋生「香取大中臣氏と鹿嶋中臣氏‐古代末期の香取神宮神主職をめぐって‐」(佐原市史編さん委員会編集『佐原の歴史』創刊号、千葉県佐原市教育委員会発行、2001)
  • 「第1編 鎌倉時代の房総・第2章 房総における中世的世界・第4節 中世香取社の風景」(財団法人千葉県史料研究財団編『千葉県史 通史編 中世』、千葉県、2007年)210~226ページ
  • 『八潮市史 史料編 古代中世』(八潮市役所、1988年)史料451(424ページ)、史料456~460(430~433ページ)、史料477(444~445ページ)

(功刀俊宏)

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