大中臣氏

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 大中臣氏〔おおなかとみうじ〕は、香取神宮(千葉県香取市)の神官を務めた一族。

目次

概要

 「香取大宮司系図」では、中臣国子・国足と続き、その子意美麻呂〔おみまろ〕の子、清麻呂の末裔〔まつえい〕とされる。同系図によれば、中臣・藤原氏の祖である天児屋根命〔あまのこやねのみこと〕の末裔五百島が、下総国匝瑳郡〔そうさぐん〕に住み、香取を氏の名としたが、子がなく中臣清暢(清麻呂の末裔)を養子とした。清暢は、姓を大中臣に改め、香取神宮の神主(大宮司ともいう)となった。この清暢が大中臣氏の祖とされ、同氏が代々香取神宮の大宮司・大禰宜〔おおねぎ〕職を世襲した。

神職・社領をめぐる争いと大中臣長房の登場

 香取神宮では、社務権を持った6か年任期の大宮司(神主)と、神事奉仕を第一とした大禰宜が神官の中心に位置した。大宮司に任命された者の名が明らかになるのは、平安時代末期の12世紀からである。大宮司は、香取神宮を氏神とする藤原摂関家(藤原氏〈中臣鎌足〔かまたり〕の子孫〉の氏長者〔うじのちょうじゃ〕)によって任命された。摂関家は、神領の本家としての地位を兼ねていた。
 平安時代以降、香取神宮は、下総国香取郡を中心にして関東各地に社領を形成した。しかし、鎌倉時代以降、千葉氏をはじめとする武士による社領への侵略が相次いだ。こうした状況において、神職と社領は、その係争対象となった。
 その一例として、12世紀半ばには、鹿島中臣氏が神主に任じられ、大中臣氏と神主職をめぐり争うなど、神職の相続に混乱が見られた。鹿島中臣氏が香取神宮司を務めた背景には、香取と鹿島を結ぶ水上交通の存在、両氏の婚姻などの交流が考えられる。鹿島中臣氏との対立だけではなく、大中臣氏一族内部でも、大禰宜・大宮司の両職をめぐり、一族間での争いが続き、神宮の組織は大きく混乱した。
 さらに貞治4年(1365年)には、千葉氏一族の中村胤幹が神官の一部と結託して、香取社中へ乱入し狼藉〔ろうぜき〕を働く事件を起こした。この事件の背景には、千葉氏が地頭職〔しき〕を持つ香取一帯で地頭の代官を務める中村が、神官の所領を押領し、香取社との対立を深めていたことが挙げられる。この事態に大禰宜であった大中臣長房は、関白二条師良〔にじょうもろよし〕を通じて室町幕府に働きかけ、応安7年(1374年)には千葉氏の抵抗を受けながらも、最終的に香取社の権利を回復している。
 このように千葉氏の影響力を排除した長房は、長年の一族の所領争いにも勝ち抜き、大宮司職を吸収して、名実共に神官のトップとしての地位を固めた。さらに慣習法としての「社家の法」を神官たちに守らせ、大禰宜による神官の統制を図っている。大禰宜と大宮司の両職は、子の幸房に引き継がれ、以後その系統が両職を維持した。

八潮市域周辺との関わり

 中世古利根川(中川)等には関(河関)があったが、香取神宮は戸崎〔とがさき〕関(現三郷市戸ケ崎)・大堺関(現八潮市大瀬と推定される)・猿俣〔さるがまた〕関(現東京都葛飾区)・行徳関(現千葉県市川市)・長島関(現東京都江戸川区)などの支配および関銭徴収権を握っていた。
 南北朝期、長房は、神宮領再編の一環として、これらの河関について摂関家・幕府に働きかけ、その安堵〔あんど〕を勝ち取った。至徳4年(1387年)に長房が嫡子幸房に与えた財産目録には、「つるかそね」(鶴ケ曽根。現八潮市鶴ケ曽根)や「大さかへ」(大堺)の関での関銭徴収権などの記載が見られる。
 その後の大中臣氏による河関支配については不明であるが、戦国時代に入ると、小金城(現千葉県松戸市)主高城氏〔たかぎし〕が長島を知行〔ちぎょう〕していたので、神宮(大中臣氏)による支配は終焉〔しゅうえん〕していたと思われる。  

参考文献・ホームページ

  • 川尻秋生「香取大中臣氏と鹿嶋中臣氏‐古代末期の香取神宮神主職をめぐって‐」(『佐原の歴史』創刊号、2001年)
  • 千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 通史編 中世』(千葉県、2007年)210~226ページ
  • 『八潮市史 史料編 古代中世』(八潮市役所、1988年)史料451(424ページ)、史料456~460(430~433ページ)、史料477(444~445ページ)
  • 『八潮市史 通史編1』(八潮市役所、1989年)437~455ページ

(功刀俊宏)

 ☆このページの平成24年(2012年)6月5日版(初版)はこちら

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