八條光平
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八條光平〔はちじょうみつひら〕(生没年不詳)は、大河土御厨内八條郷の地頭である鎌倉幕府御家人。
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解説
鎌倉期に八條郷を本拠とした御家人八條氏は、八條郷に土着した渋江一族とする説がある。渋江氏は、武蔵七党のひとつ野与党の出身である。光平は、渋江一族の箕輪〔みのわ〕二郎経光の五男であり、通称は五郎。八條郷に住み、八條五郎光平と称したといわれる。「武蔵七党系図」(『続群書類従』所収)にその名が確認される。
また、『吾妻鏡』(記事はこちら〈PDF〉)によれば、建暦3年(1213年)5月の和田義盛〔よしもり〕の乱における論功行賞で、八條郷の地頭職〔しき〕は野与党の渋江光衡に安堵〔あんど〕されたという。この渋江光衡が、八條光平と同一人物と考えられている。
八潮市域の八條殿社(明治42年〈1909年〉に廃社となり現在の八條八幡神社へ合祀〔ごうし〕)および現在の会田家屋敷周辺は、光平の館跡と目される。
参考文献・ホームページ
- 『広報やしお』第415号
- 『八潮市史 史料編 古代中世』(八潮市役所、1988年)史料262(257ページ)
- 『八潮市史 通史編1』(八潮市役所、1989年)250~251ページ
(功刀俊宏)
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