大河土御厨
大河土御厨〔おおかわどのみくりや〕は、鎌倉時代の伊勢神宮領荘園(御厨)。「大河戸御厨」とも記す。
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領域
大河土御厨の領域は、武蔵国足立郡・騎西郡、現在の八潮市をはじめ三郷市・松伏町・吉川市・足立区東北部にわたると考えられる。その中心は、松伏町大川戸付近とされる。この御厨内にある「大川戸御厨内八条郷」は、八潮市大字八條付近を指すと推測される。
なお、「オオカワ」は利根川の別称、「カワド(河戸)」は河津(湊〈港〉)の意で、大河戸は利根川(現中川)右岸の領域とも推定される。そこで、大河戸御厨の領域は、近世の八條領と淵江領〔ふちえりょう〕域であるとも思われる。そのことにつき、江戸時代後期の西袋村名主小澤豊功〔おざわとよかつ〕は、嘉永3年(1850年)の「八條郷諸記録抄」(『八潮市史 史料編 近世2』史料48)で、「八条領、淵江領ならんか、古利根川の両縁りを大河戸、又河土又河郷とも云う、河辺とも」と推測している。
源頼朝からの寄進
大河土御厨の史料上の初見は、史書『吾妻鏡』寿永3年(1184年)正月3日条に見られる寄進状である。それによれば、同所はもともと源氏相伝の所領であったが、平氏により押領されていた。平氏滅亡後、源頼朝〔みなもとのよりとも〕は、新たに豊受大神宮〔とようけだいじんぐう〕(伊勢神宮 外宮)へ寄進し、同宮権禰宜〔ごんねぎ〕度会光親〔わたらいみつちか〕に付したとされる。この後、御厨の諸役負担が確認される。
大田氏庶流大河戸氏と大河土御厨の動静
大河土御厨における在地領主は、大田氏庶流大河戸氏であり、その活動は平安末期から鎌倉末期まで確認される。『吾妻鏡』治承5年(1181年)2月18日条によれば、大河戸広行が赦免されている。この前年には、平氏方に属した父重行が、伊豆国〔いずのくに〕蛭島〔ひるがしま〕(現静岡県伊豆の国市)に流されていた。平氏方に属したと考えられる大河戸氏が許されたのは、広行が三浦義明〔みうらよしあき〕の婿であり、有力な御家人である三浦氏からの働きかけがあったものと推定される。その後、大河戸氏は、源平合戦や承久の乱への従軍、将軍上洛の供奉など、鎌倉幕府御家人として活動する。さらに鎌倉末期には、反幕府方へ属したことも確認される。
大河土御厨における主な動きとしては、『吾妻鏡』によれば、建久3年(1192年)12月28日条では貢租の増徴、建久5年(1194年)には御厨において伊豆宮神人とのけんかが報じられ、頼朝が真相究明のため、使者を派遣している。次いで、和田義盛〔よしもり〕の乱直後の建暦3年(1213年)には、それまで山内政宣の所領であった御厨内の八條郷が式部大夫〔しきぶのたゆう〕重清に与えられ、地頭職〔しき〕は渋江光衡に安堵〔あんど〕されている。なお、山内政宣は、三浦氏一族である岡崎氏の出身であり、和田義盛の乱で戦死している。その後の弘安10年(1287年)には、大中臣〔おおなかとみ〕隆直による御厨地頭職に対する非分競望が訴えられている。また、正慶元年(1332年)には、大河戸氏一族と推測される野田太郎四郎と雑掌(荘園の管理者)である冬俊の相論が確認されるなど、大河土御厨は鎌倉末期までその動静をうかがうことができる。
参考文献
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(角川書店、1980年)157ページ
- 埼玉県編集発行『新編埼玉県史 通史編2 中世』(埼玉県、1988年)793~794ページ
- 『日本歴史地名大系 第11巻 埼玉県の地名』(平凡社、1993年)1061ページ
- 『八潮市史 史料編 古代中世』(八潮市役所、1988年)史料145(162~163ページ)、史料151(167ページ)、史料211(217ページ)、史料262(257~258ページ)、史料330~332(324~327ページ)、史料415(393~394ページ)
- 『八潮市史 通史編1』(八潮市役所、1989年)248~251ページ
(功刀俊宏)
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