『れきナビ―やしお歴史事典』:旧版:八條郷(20120320版=初版)

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中世荘園分布図
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八條郷〔はちじょうごう〕は、中世に見られる八潮市域の名。

※地名・姓氏名の「八條」の総説はこちら

目次

概要

大字八條付近に比定される。郷とは、古代律令国家の地方行政の末端組織で、国・郡の下部組織として、50戸を単位にして編成された行政村落。10世紀から11世紀にかけて郷は、郡下の行政単位から、国内の所領単位の呼称に変化した。

『吾妻鏡』にみえる八條郷

八條郷が確認される史料は、『吾妻鏡』のみであり、建暦3年(1213年)5月17日条に「武蔵国大河戸御厨内八條郷」と記される(記事はこちら〈PDF〉)。同月の和田義盛〔よしもり〕の乱において、八條郷領主であった山内政宣(三浦氏一族である岡崎氏の出身)は、これにくみし敗退した。その論功行賞で八條郷は式部大夫〔しきぶのたゆう〕重清に与えられ、地頭職〔しき〕は元のごとく野与党渋江光衡に安堵〔あんど〕されたという。大河土(戸)御厨は、源頼朝〔みなもとのよりとも〕が寿永3年(1184)正月、伊勢神宮に寄進した荘園(御厨)であり、その内の八條郷の下司職などの荘官職が、山内氏の失脚に伴い与えられたものと思われる。また、野与党の渋江経光の子息光平が八條五郎を称していることから、光平と光衡は同一人物とみられる。

渋江氏流八條氏と八十市

その後渋江氏流「八條氏」に関する人名は、「本土寺過去帳」より、応仁3年(1469年)10月12日に「妙秀尼 八條ノ御前」、文明3年(1471年)正月11日に「八條次郎四郎」の名がそれぞれ確認される。また、戦国期に成立したと推定される「市場之祭文」(「武州文書」)に「武州き西こふり八十市祭之」とあり、八十市は八條の地とみられ、戦国期には水運を含む交易上の拠点であったと考えられる。

八條殿社と八條上杉氏

かつて八條にあった八條殿社(明治42年〈1909年〉に廃社となり現在の八條八幡神社へ合祀〔ごうし〕)では八條氏がまつられていた。まつられている八條氏については、室町期の八條(上杉)房繁〔ふさしげ〕等の諸説がある。
特に八條上杉氏と八條の関わりについては、近世の文献などから次のように言及されている。扇谷上杉〔おうぎがやつうえすぎ〕朝顕は八條に住み、八條上杉と称したとし(「玉石雑誌」)、その孫八條満定も「居城」は八條にあったとされる(「応永武鑑」)。満定のおい房繁は、馬術八條流の流派を享禄年中(1528年~1532年)に起こしたと見える(「上杉系図」〈『続群書類従』〉)。八條殿社の社家であった新井家では、紙本着色八條殿社神像を所蔵しているが、そこに描かれている馬上姿の神像「八條様」は、馬術に優れた八條房繁とのつながりを想起させる。
なお、この八條上杉氏とは別に、犬懸上杉〔いぬかけうえすぎ〕氏の朝宗〔ともむね〕の子氏朝は、京都八条に住んでいたことから、八条上杉氏と称している。

参考文献・ホームページ

  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』全15巻・17冊(吉川弘文館、1979年~1997年)
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(角川書店、1980年)685ページ
  • 小要美恵子「第2編 中世の八潮・第1章鎌倉期の八潮・第2節 八潮周辺の荘園」(八潮市史編さん委員会編『八潮市史 通史編1』 八潮市役所 1989年)248~251ページ
  • 小野文雄監修『日本歴史地名大系第11巻 埼玉県の地名』(平凡社、1993年)1051ページ
  • 教育総務部文化財保護課企画・編集『八潮市の文化財ガイド』(八潮市教育委員会、2009年)17ページ
  • 『広報やしお』第482号

(功刀俊宏)

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