『れきナビ―やしお歴史事典』:旧版:近世(20120326版=初版)

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近世〔きんせい〕は、日本史の時代区分の呼称。

目次

近世の定義

『れきナビ』における近世の定義は、『八潮市史』を踏襲している。

近世の始期:徳川家康が関東に入国した天正18年(1590年)8月
近世の終期:江戸幕府が崩壊した慶応4年(9月8日に明治と改元。1868年)

ちなみに、『八潮市史』は、江戸時代について、慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍〔せいいたいしょうぐん〕に就任して以降、慶応3年(1867年)に15代将軍徳川慶喜〔よしのぶ〕が大政奉還するまでとしている。

八潮の近世史概説―『八潮市の文化財ガイド』より―

新田開発と近世村落の成立<江戸時代>

江戸時代、八潮市域は20の村(現在の大字に相当)に分かれていたが、その多くは1600年前後に成立したと言い伝えられている。江戸時代に入り、幕府の新田開発政策のもと、八潮市周辺でも綾瀬川の直道化や人工堤防の構築、八條用水葛西用水の開削がなされ、豊かな耕作地が生まれていった。近世の村は、幕府の支配単位の末端に位置づけられ、年貢納入や諸役(伝馬役など)を負担した。

水運と交通、産業の発達<江戸時代>

この時代の物資輸送の中心は、安全かつ大量に物を運ぶことができる船を使った水運であり、綾瀬川や中川の川岸には、荷物の積み下ろしをする「河岸」が設けられ、荷物を積んだ川船が行き交い、賑わいを見せていた。また、水運は、市域の村々に新たな産業の振興をもたらした。現在も地場産業として行われている染色業は、江戸時代中頃から江戸町人の間に広まった湯上り後の浴衣の柄染めで、水運と密接に結びついて発展した。市域の染色業は、消費地の江戸と木綿生地の集積地岩槻〔いわつき〕との間に位置することや、稲作が主であるため農閑期の余剰労働力があること、作業に必要な水が豊富なことなどから、農家の副業として盛んになった。
また、市域を南北に縦貫する道は「下妻街道」「千住往来」と呼ばれてきた。この道がいつ開かれたかは明らかではないが、平安時代末頃には関東と奥州を結ぶ主要道のひとつであったとされている。その後、この道は、江戸と下妻間を結ぶことから下妻街道と呼ばれ、日光道中の脇往還として、また物資の輸送路として人々に利用され、市内の大原八條地区では人馬の継立も行われていた。当時の八條村の賑わいについて、文政6年(1823年)頃ここを訪れた江戸の僧津田大浄〔つだだいじょう〕は、「片鄙〔へんぴ〕の一都会というべく、最〔いと〕賑〔にぎ〕やかなりけり」(「遊歴雑記」)と、酒楼・銭湯・髪結所などが軒を連ねる様を記している。

参考文献・ホームページ

  • 教育総務部文化財保護課企画・編集『八潮市の文化財ガイド』(八潮市教育委員会、2009年) 3~4ページ
  • 『八潮市史 通史編1』(八潮市役所、1989年)「『八潮市史』の編集」、528、1103ページ

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