延宝8年八條領絵図

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八條領絵図(延宝8年)から転送)
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  •  延宝8年(1680年)八條領絵図〔えんぽうはちねんはちじょうりょうえず〕は、西方村(現越谷市)と八條村添堀築留訴論〔そえぼりつきとめそろん〕につき裁許絵図。絵図の写しが八潮市登録有形文化財小澤家絵図」に残されている(水-1・大-1)。

    ※以下の画像は水-1。大-1は、写しの下書と推定される。
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    目次

    画像・翻刻

    絵図(表)の一部翻刻画像(リンクあり)

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    ※注意(脚注参照)[1]
    『広報やしお』「八條の地名」(PDF)『広報やしお』「鶴ヶ曽根の地名」(PDF)『広報やしお』「小作田の地名」(PDF)『広報やしお』「松之木の地名」(PDF)『広報やしお』「伊草の地名」(PDF)『広報やしお』「二丁目の地名」(PDF)『広報やしお』「木曽根の地名」(PDF)『広報やしお』「南川崎の地名」(PDF)『広報やしお』「伊勢野の地名」(PDF)『広報やしお』「大瀬の地名」(PDF)『広報やしお』「古新田の地名」(PDF)『広報やしお』「垳の地名」(PDF)『広報やしお』「大原の地名」(PDF)『広報やしお』「大曽根の地名」(PDF)『広報やしお』「浮塚の地名」(PDF)『広報やしお』「西袋の地名」(PDF)『広報やしお』「柳之宮の地名」(PDF)『広報やしお』「南後谷の地名」(PDF)立野堀村綾瀬川葛西用水古利根川picture of a foo
    ※「馬場村」→「上馬場」/『広報やしお』「中馬場の地名」(PDF)
    ※画像の接合の不備は、元データによる。

    絵図(表)の原図画像

    絵図裏書の翻刻

     こちら(PDF)

    解説

     八條領が描かれている延宝8年(1680年)10月の絵図。八條用水添堀築留を巡る西方村(訴訟方、原告)と八條村(相手方、被告)の争論の裁許絵図である。絵図の裏に判決文が記載されている。

    絵図(表)

     八條領の村名・領主・川・道などが描かれている。
     当時の八條領は36か村で、南部の20か村が現八潮市、中部の3か村(立野堀村青柳村柿木村)が現草加市、北部の13か村が現越谷市である。上馬場村と中馬場村は、合わせて「馬場村」として記載されている。二町目村木曽根村は、本村とは別に「新田」も記載されている。
     村々は、領主別に色分けされており、桃色は「御領(料) 〔ごりょう〕」で幕領、白色は「私領〔しりょう〕」で大名領や旗本領であることを示す。幕領は、八條村・西袋村・瓦曽根村(現越谷市)・登戸村(同)の4か村と蒲生村(同)の一部である。大名領は、柿木村などが忍藩〔おしはん〕(寺社奉行)阿部正武〔まさたけ〕領、伊草村などが老中土井利房〔としふさ〕領、二町目村などが古河藩(老中)堀田正俊〔まさとし〕領である。
     川などは、古利根川綾瀬川のほか、元荒川(名称記載なし)と瓦曽根溜井〔ためい〕(「溜井」と記載)、「葛西領〔かさいりょう〕用水井堀」「本庄(所)御上水」「八条村(領ヵ)用水井堀」、「葛西溜井」と大瀬村浮塚村の各締切堤などが描かれている。
     道は、「日光海(街)道」のほか、大原村や八條村を通る下妻道(名称記載なし)、「柿ノ木村・八条村大境道」などが描かれている。
     争論となった八條用水の「添堀築留」の「添堀」に関しては、八條用水に沿った「添井堀」が描かれている。「築留」は、「柿ノ木村・八条村大境道」付近に「築留野道」と記載されており、ほかにも「築留」「つきとめ」の記載がある。水流の遮断を「築留」と称しているとみられる。

    ※瓦曽根溜井付近の「御野」は、画像接合の不備で「御殿野」と推定される。
    ※小澤家絵図の裁許絵図は、誤写がある可能性もある。

    絵図裏書の判決文

     延宝8年(1680年)10月25日付の評定所(幕府の最高裁判機関)の裁許状(判決文)。寺社奉行・町奉行・勘定頭(勘定奉行)の三奉行が連署・押印している。
     要旨は以下の通り。

    • 冒頭:西方村と八條村の「添堀築留訴論」について、代官の手代〔てだい〕を派遣して見分させたうえで、裁許を申し渡すものである。
    • 第1条:西方村の訴えによると、八條用水の「添堀」は、西方村から柿木村までの8か村の悪水(排水)を、八條村にある2か所の圦〔いり〕で古利根川へ落として来た。ところが、10か年以前に八條村が柿木村との「境道末」を「築留」、さらには柿木村から東方村(現越谷市)までの7か村も「築留」ため、西方村が水損するようになったという。西方村以外の村々の供述によると、八條村の「築留」がいつからあったかは不明とのことである。西方村は長年「築留」を放置してきたので、今回訴え出たのは時機を逸している。
    • 第2条:八條村にある悪水落圦は、八條村・青柳村他4か村の悪水を落とす圦である。西方村から柿木村までの8か村は、修復の人足を出していない。西方村の悪水を落とす堀であるという主張は不当である。
    • 第3条:(略)
    • 末尾:西方村の訴えは非分であるので、「築留」はこれまで通りとすること。絵図に裏書を加えて、西方村と八條村に1枚ずつ交付する。

    絵図裏書の左下の記載(小澤家絵図)

     天保14年(1843年)2月16日に小澤豊三郎が写したとあり、小澤平右衛門豊功の署名・花押がある。

    ※豊三郎は、豊功の次男の重晶。
    ※豊功の文化6年(1809年)「石高反別田畑石盛控領々村々」(『八潮市史 史料編 近世2』史料33)によると、延宝8年(1680年)裁許絵図について、「八条村ニ所持有」とある。

    関連絵図・地図・航空写真

    八條領36か村の地図

    八條領の領主変遷図

    天保7年(1836年) 八條領絵図

    Tenpo7-hachijoryoezu.jpg

    令和元年(2019年) 旧八條領周辺航空写真

    ※その他→「『れきナビ―やしお歴史事典』:地図と航空写真から調べる」や「地図と航空写真にみる八潮の歩み」参照

    参考文献・ウェブサイト

    八潮市立資料館の刊行物など

    その他

    • 葛西用水路土地改良区編集発行『葛西用水史 資料下』(1989年)789ページ
    • 工藤航平『近世蔵書文化論―地域〈知〉の形成と社会』(勉誠出版、2017年)84、189~193、235~236ページ
    • 高山治[2]「葛西用水 長く使うことのできなかった用水路 」(『地図中心』通巻513号、2015年)
    • 広報やしお
    • 『越谷市史 第3巻 史料1』(越谷市役所、1973年)史料55・254
    • 『越谷市史 続史料編 第1集』(越谷市史編さん室、1981年)129、141、143~144、247、249、251、311ページ
    • 『越谷市史 続史料編 第2集』(越谷市役所市史編さん室、1982年)329~330ページ
    • 『越谷市史諸家文書目録』(越谷市教育委員会、1989年)104ページ
    • 「越谷市デジタルアーカイブ」
    1. 八條領絵図(2点)の画像について:資料所有者の掲載許可を得たうえで、『れきナビ』(本サイト)に掲載させていただいているものです。画像の無断転載を禁止します。本サイトの利用規約はこちら
    2. 高山治の「高」は、正しくは異体字の「Taka.jpg」(はしごだか。Unicode:U+9AD9)です。この字は、オペレーションシステムなどの環境により正しく表示されない可能性があるため、本文では常用漢字で表記しています。
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